小石川植物園
休日に小石川植物園に行きました。
場所は茗荷谷・白山で、名前の通り、山や谷の多い場所です。
園に到着するまで何度か登ったり下ったりしました。
日中は三〇度を超える気温でしたので、とても暑く、帽子を持って行って正解でした。
暑いので他の入園者もそれほど多くなくて、一通り回るにはちょうど良かったかもしれません。
園内は木がたくさん植えてあって、都内にいるとは思えないくらい、自然に囲まれた環境です。
木陰にいると、たまに涼しい風が通り抜けていき、生き返るようでした。
小石川植物園は、植物研究の色が濃い場所なせいか、他の植物園では見られないようなとてもたくさんの品種が育てられていました。
中には、天然記念物や絶滅危惧種の札が貼ってあるものもありました。
強い日差しですので、植物も青々と茂っていましたが、お花に関してはそれほど多くはなさそうでした。
花を付ける植物以外も、多く育てているからかもしれません。
それでも、今の季節の見頃は、アジサイ、キキョウ、ヒマワリなどでしょうか。
温室の中では、ランの仲間も大変綺麗でした。
遺伝で有名なメンデルが研究のために使ったというブドウの分株や、万有引力の法則を発見したニュートンのリンゴの木の分株など、面白いものもありました。
また、園内の柴田記念館の展示コーナーでは、植物学者の牧野富太郎氏の植物図鑑が置いてありました。
おみやげとして、芍薬と牡丹のポストカードを買いました。
レジの横には募金箱があって、募金をした方には大きなマツボックリをくれるそうです。
そのマツボックリが本当に大きくて立派なものだったので、きっと子供が見たら大喜びしそうです。
もしトトロや森の精がいたら、こういう大きなマツボックリを森の通貨にしていたんじゃないかと想像していました。
そうすると、この募金箱は人間のお金と森のお金の両替システムなのかもしれませんね。
園内には他にも、大きなソメイヨシノがあったり、カエデの木もたくさんありましたので、別の季節に来たら、また別の顔を見せてくれそうです。
そのときには、また足を運ぼうと思います。
りんごの俳句
もう七、八年くらい前のことです。
NHKの俳句の番組で、「りんご」を季語にした句を募集していました。
ここは一つ、私も「りんご」で作ってみようと、りんごに対するイメージについて、考えをめぐらせていました。
皆さんも少し考えてみると、いろいろ浮かんでくると思います。
りんごと言えば、赤い。果物。元気なイメージとか。太陽みたいかも。
番組の中で紹介するされている句の中には、りんごを赤ちゃんや子供に例えるものもあったように思います。
家の庭の隅にあるりんごの木を交えた、夫婦のやりとりを表現した句もあったかもしれません。
番組の中で選ばれる句はどれも秀逸で、短い文字の中にストーリーや情景が頭の中で浮かんでくるようなものばかりでした。
そんな中でも、私が特に感動した句があったのでご紹介させてください。
恋文は 縦書きでせう 青林檎
りんごがこんなにも青春を表す言葉にピタリとはまることに、私は目からウロコが落ちる思いがしたのと同時に、それにも増して、青春の甘酸っぱさが頭の中にいっぱいになりました。
大好きなあの人にラブレターを書こうと思い立ったとき、さてどう書いたら良いものか。
そもそも横書き?縦書き?
黒いボールペンだと暗いかな?
シールとか貼る?貼りすぎてもおかしいよね?
どこからか得たアドバイスをもとに、思い悩む若者の気持ちが伝わってくるようです。
ただのりんごではなくて、青林檎にしたところも、若々しさがいっそう引き立ちますね。
どうにかして小手先の「うまい俳句」を作ろうとしていた私は、俳句が素敵すぎて、ごめんなさいしたくなるほど心が洗われました。
私も、こんな素敵な句が作れるようになりたいものです。
ドイツに心をはせる『針と糸』
普段から忙しい生活をしていると、「丁寧な暮らし」という言葉に憧れをいだきます。
急いで、次へ次へと仕事をしていることで、何か素敵なことを見逃しているのではないか。
もう少し心落ち着けて、段取り良く、秩序を持って、事を運ばせることができるんじゃないか。
人の他愛のない話に共感を持って、もっと優しく接することができるんじゃないか。
そんなことを考えることもあります。
最近、小川糸さんの『針と糸』というエッセイ集を読みました。
彼女のドイツや鎌倉での生活の話をメインに据えた内容で、特にドイツの文化や習慣に関するお話は、我々の心をドイツへ運んでくれます。
ドイツでは週末になるとカフェのWi-Fiが使えなくなったり、ビジネスメールを送ることを禁止したり、休むことに対してもメリハリを持った「ルール」があるそうです。
日本人は仕事の終わりを作るのが苦手だという話を聞いたことがあります。
ドイツ人も日本人に似て生真面目なところがありそうなので、こうやって少し強制力のある「ルール」として運用することで、全員の足並みが揃うのかもしれないですね。
日本も似たような「ルール」で真似したらいいかも。
また、まだまだ使える家電製品や家具・道具などは、家の前に「どなたでもどうぞ」なんていうプレートと一緒に置いておけば、自由に持っていって良い慣習があるそうです。
日本はクリスマスになると、綺麗な電飾が街をにぎやかにし、その年の最後の一大イベントとして大いに盛り上がりますが、ドイツでは逆に静かになるそうです。
十二月も半ばになると、帰省する人も増えるのか、電車の中もがらんとし、家族と一緒に静かに過ごすのだと言います。
その季節は、街が静寂に包まれ、清らかな空気に満たされるそうです。
ただし、大晦日はあちこちから花火が上がって、その騒ぎは夜中まで続くのだとか。
異なる文化に身を置くことで、新しい視点から自分たちの生活を見直すことができ、とても素敵だなと思いました。
『針と糸』の全体の内容としては、そうやって異文化での暮らしについて触れる一方で、亡くなってしまった小川糸さんのお母さんとの過去のわだかまりについて触れている話が四分の一くらいあります。
日本を離れ、異文化に触れることで、それが最終的に自分自身の成り立ちを見つめることになるのかもしれませんね。
今のとなっては遠い話で、お母さんが亡くなってようやく優しく考えられるようになってきたそうです。
さて、小川糸さんはとてもフットワークが軽いようで、先に触れたように鎌倉に家があり、ドイツの部屋を借り、次は八ヶ岳に山小屋を建てようとしているそうです。
いろいろ素敵な場所で生活するのは、少し憧れがありますね。
私もいつか、少し日常から離れたところで暮らしてみたいものです。
大作を作ることについて
私の愛読書の一つに『ゲーテとの対話』があります。
エッカーマンはいわばゲーテの弟子のような存在で、詩作や作品批評をするエッカーマンに対して多くのアドバイスをしていました。
そして、そのアドバイスの一つ一つがエッカーマンだけでなく、何か大きなことを成したいと思う読者へのアドバイスにもなっています。
『ゲゲゲの鬼太郎』でおなじみの水木しげる氏も、この本を暗記するほど読んでいたそうです。
ゲーテは詩を作ることの他にも、それを演劇にしたり、また自国だけでなく海外の作品に対する批評、自然や科学に対する考察なども行っていました。
ゲーテの家に来るお客様たちも、国の重要人物や、芸術家など、様々な人が訪れ、自由闊達なコミュニケーションをとっており、その時代の有名な人物がたくさん登場します。
ゲーテが褒めている作品を深堀していっても、きっと面白い作品に出会えるはずです。
さて、『ゲーテとの対話』を読んでいると、すぐに登場するエピソードの一つに、大作を作ることに関するアドバイスがあり、今回はそれに触れていきます。
君はこの夏、詩をつくらなかったのかね、とゲーテは私にききながら、話をきりだした。
二つ三つはつくりはしましたが、全体としてあまり気が乗りませんでした、私はこたえた。
「あまり大作は用心した方がいいね!」と彼は言葉をついで、
「いやまったく、どんなすぐれた人たちでも、大家の才能をもち、この上なしの立派な努力を重ねる人たちこそ、大作で苦労する。
私もそれで苦労したし、どんなマイナスを経験したか、よくわかっている。
そのおかげで、なんとまあ何もかもが水泡に帰しちまったことか!
私がまともにできるだけのことをちゃんとみなやっていたとしたら、そりゃ、百巻でも足りないくらいになっただろうよ。
ゲーテほどの詩の達人でも、大作はとても難しいものだったそうです。
彼の言いぶりだと、おそらく作っては捨て、作っては捨て、かなりの量の言葉がゴミ箱へと消えたのでしょう。
大きな作品に取り組んでいると、それが頭から離れず、他のことは何も浮かんでこなくなり、生活そのもののゆとりまでなくなってくるそうです。
特に詩の場合には、新鮮な感情やエネルギーが必要なものだと思いますので、一度そのイメージをつかみそこねると、別の機会に精神をもう一度同じ状態に持っていくことなどできなかったのでしょう。
私も創作活動をすることがありますが、大きすぎる作品を扱うときには、このエピソードを思い出し、気をつけるようにしないといけませんね。
さて、今回は大作を作ることに関するエピソードについて書きましたが、私はよくこの本を読み返しているので、もしかすると、これからもたびたび『ゲーテとの対話』の話をすることになりそうです。
リモートワークと自分だけの部屋
この数年間、新型コロナウイルスは、我々の生活の様々なことを変えていきました。
とにかくマスクを付けて、手洗いうがいを徹底し、混雑を避け、人との接し方も、働き方も、いろんなことが変わっていきました。
しかし、そんなコロナの影響も、いまやその力は弱体化し、感染者数もとても少なくなっているようです。
まだ「新型」って言わなきゃいけないの?と思うほど、もはや過去のものとなりそうなくらいです。
さて、コロナ中には多くのサラリーマンが、リモートワークという勤務体制をとっていました。
私も例にもれず、家からリモートワークをしていました。
しかし、もともと家がリモートワークをするような環境ではないので、家族の声がうるさかったり、ときには家事を頼まれたりと、なかなか仕事に集中できる場所ではありませんでした。
話はそれるのですが、イギリスの女性作家にヴァージニア・ウルフという方がいらっしゃいました。
これまで、女性は「家庭の天使」であることが望まれていて、職業に就いて社会的に活躍しようとするものならば、やれ「家庭をおろそかにしている!」とか、やれ「ご主人のことは誰が見ているんですか?」と言われていました。
とにかく女性は、仕事を通した自己実現が難しい世の中だったのです。
作家という職業についても同じで、もしも女性が作家をするのならば、年に五〇〇ポンドの稼ぎと、自分だけの部屋が必要だと主張していました。
そうすれば、精神的な独立を果たせるのだと。
彼女の著書の『自分だけの部屋』によれば、ドアに鍵をかけることができる個室だそうで、きっと私が使っている防音効果など微塵もないマンションの一部屋なんかよりも、重厚なのではないかと想像しています。
作家が使う部屋なのですから。
でも、ロンドンの一般的な住宅の面積と日本のそれは、大して変わらず小さいはずなので、大きさだけなら良い勝負かもしれません。
なんにせよ、私が快適な部屋を手に入れるためには、もしかして、さらに五〇〇ポンドくらいの収入が必要だったりするのかも、なんて、遠い空を見上げています。
『自分だけの部屋』が出版されたのが1929年で、その頃のポンドを現在の日本円に計算すると、410万円くらいだそうです。
遠い空が、さらにぼんやりしてきたように感じます。
最高の一日
とても忙しくて休みどころではないような毎日を過ごしていると、いざ休日という無地の空白に解放されたとき、何をしていいのかわからなくなってしまうことがあります。
仕事のことばかり考えすぎたせいで、いつも休みの日にどんなことをしていたか、すっかり忘れてしまうのです。
言わば、休むのが下手くそになってしまった状態です。
そんなときのために、忙しくてフラストレーションがたまっているときほど、やりたいことをメモするようにしています。
そうすることによって、いざ自由を得たときに、このやりたいことリストを宝の位置を示すコンパスのようにして、休日を過ごすことができるのです。
また、心に余裕があるときは、しばしば「最高の一日」について考えることがあります。
アメリカの女性作家アニー・ディラードは、彼女の書籍である『本を書く』で次のように述べています。
読書で費やした一日を、良い日という人がいるだろうか。
だが、読書をして過ごした人生は、良い人生である。
十年間、あるいは二十年間にもわたって、一日が次の日に酷似しているのは、とても良い日には思えない。
私が以前考えた良い一日は、スポーツなどで体を動かし、本を読み、夕方頃にラジオを聞きながらお菓子を食べられたら、最高だろうと思っていました。
ただ、それを毎日繰り返したところで、良い人生になるかというと、そうはならないであろうことは想像できますね。
良い一日と、良い人生は両立が難しいのかもしれませんね。
おそらく、両方を充実させる方法の一つは、比喩的な表現で言えば、何かの種を植えて、それを育て、大きな実を収穫するようなことなのではないかと考えます。
たった一日の楽しみではなく、長い時間をかけて、少しずつ労力をかけ、大きくなるのを楽しみ、期待して過ごしていくのです。
そして、人生の最後に大きな実を収穫できたら、しめたものですね。
良い一日、良い人生を得る方法は他にもいろいろあるでしょうから、これからもずっとこの課題については考えていくことになりそうです。
書評の楽しみ
週末になると書評をのせている新聞社が多いです。
私は書評が大好きで、できるだけ書評が読めるように、朝日新聞は土曜日朝刊、読売新聞は日曜日朝刊と、とりあえず2社だけ覚えています。
書評には今話題になっている文学作品、政治経済、最新科学など、様々な分野の書籍が紹介されます。
どの書籍も新聞社や書評委員の方の選りすぐりの一冊のはずなので、たとえ自分の守備範囲外の本でも、新しいことを知れるチャンスだと思って読んでいます。
あまりに私の知識の外の話だった場合には、息を殺して、想像力をフル稼働して読むこともあるくらいです。
さて、朝日新聞の書評には書評委員として、作家の金原ひとみさんがいます。
金原ひとみさんの書評には、いつも素敵な表現があって、見つけると嬉しくなります。
金原ひとみさんの書評に注目するようになったのは、文學界新人賞の選考委員の一人である彼女のコメントを見たときからでした。
何でもいいよ! 小説書けたら送ってみて!
選考委員のコメントの中でも、最もシンプル。
そして、どんなものでも受け入れる、大きな気持ち。
きっと出来上がった小説を出してみようか悩んでいる方もいるはずなので、これはすごい励ましの言葉ですよね。
こういう言葉を投げかけられるように、私もなりたいものです。
作家活動や書評委員など、これからも応援しています。